今まで付き合った男と、結婚の話がなかったわけじゃない。
大学の時に付き合っていた康太とは、卒業した後も付き合っていて、お互い25歳になった年にプロポーズもされたのだ。
でも当時、私はまだ花屋としてはまだまだ新米扱いで、お局に認められたくて必死になっていた時期だった。結婚式が立て込む週末はもちろん休めないし、平日の休みの日も、会社でもらった余りの花を持ち帰ってデザインを考えたり、話題になっているカフェやフラワーショップを回ったりと、花屋としてのスキルを磨くことばかり考えていて、康太とのデートも満足にできずにいた。
正直、プロポーズをされた時だって、康太から別れを切り出されるのではないかと思ったくらいだ。
商社マンとして私以上に忙しく働いていた康太は、平日の夜はほとんど毎日深夜にタクシー帰りで、休日も出社する日があるほど激務だったから、私たちが会えるのは、たまの平日の夜遅くだけ。どちらかの家でお惣菜とお酒を少しだけ嗜んで、たまに慌ただしくセックスする程度。そんな逢瀬は、お世辞にもロマンティックなムードではなく、休日にゆっくり二人で映画を見たり、買い物をしたりといったデートらしいデートなんていうのは、もう久しく叶っていなかった。
ホテルのフラワーショップには忙しさの波があって、結婚式が少ない夏場には幾分仕事が落ち着いて時間ができる。もう一年ぶりくらいに、週末休みが取れた日曜日の夜、学生時代に二人でたまに背伸びをして出かけていた青山のレストランを、康太が予約してくれていた。
その日も結局、前日になって急な婚礼の打ち合わせが入ってしまい、午後少しだけ出勤した私は、職場のホテルからろくにメイクも直さずにレストランに直行した。
「ごめん、乗り継ぎがうまくいかなくて遅くなっちゃって。」
約束の時間を15分もオーバーして席に着いた私は、久々にスーツ姿ではない康太を見た気がして、思わず笑ってしまった。
「なんか、康太の私服見るの久しぶりすぎて、違和感を感じる。」
「そう?まあ確かに、都とこうして週末に会うのも久しぶりだもんな。」
学生時代はテニス部で年中日焼けしていた康太も、今は運動らしい運動もできないほど忙しく、人並みに白くなった肌や、少し細くなった腕が彼の忙しさを物語っていた。
ワインやチーズから、牛ほほ肉のソテーなど一通り料理を楽しんで、お互いに近況を話し合って会話が少し途切れた時、康太がおもむろに真面目な顔で私を見た。
「あのさ、都に話があるんだ。」
二人でボトルワインを空けた後で、ほんのり酔っていた私は、急に笑みの消えた康太の顔をみて、ふっと嫌な予感が頭をよぎった。
「…どうしたの?」
「俺、実は秋からロンドンに転勤が決まったんだ。」
数秒間、康太の口にした言葉が飲み込めず、私はおそらくぽかんと口でも開いていたに違いない。そしてその後、康太の口から別れの言葉が切り出されるのだろうと思った私は、不意に鼻の奥がツンとして、目元にじわりと涙が浮かびそうになった。
「そ…そう、なんだ。」
「うん。でさ、俺考えたんだけど、」
息をついて俯いた康太の短い髪を見つめながら、私は目の前に走馬灯のようにこれまでの思い出が押し寄せてきて、涙を堪えるためにぎゅっと手を握りしめた。
「結婚、しないか?一緒にロンドンに来て欲しいんだ。」
康太が口にした言葉は、別れの言葉ではなく、それがプロポーズなのだと気がつくのに、つかの間私は康太の顔を見つめてしまった。康太は、そんな私の表情をどう見たのか、机の下から小さな箱を取り出し、ゆっくりと私に差し出した。
「え…そんな。これ…、」
別れを切り出されるのではと思ったショックよりも、さらに大きな衝撃を受けて、私は自分の鼓動がばくばく音を立てるのを聞きながら、黒いベルベットの小箱を受け取ってしまった。康太のことは好きだったし、私だって結婚を夢想してみたことがなかった訳ではないけれど、それはもっと先のことのような気がしていたからだ。
「結婚しよう、都。」
私が歓喜して箱を受け取らなかったことを、どう思ったのか、康太は真面目な顔でもう一度そう言った。
「……ごめん、康太、…ごめん、私、今…これは受け取れない。」
考えるよりも先に、口から言葉が漏れていた。普段は自分のトロさに苛立つこともあるくらいなのに、こういう時だけ反射神経のいい自分の口元を殴りたかった。
「え?」
あの時の康太の顔は多分一生忘れられない。少し痩けた頰が少しだけ震えていて、笑おうとして固まった口元が、何か言葉を発しようとぱくぱくと動いて、やがてそっと閉じられた。
その日、その後どうやって帰ったかは覚えていない。
結局私は、あの小箱を開ける勇気を持てぬまま、彼がロンドンに経つ直前に、返してしまった。康太はあの日から何度も、「ロンドンでも花屋で働けばいい」とか「どうしても日本を離れられないなら、帰ってくるまで待っていて欲しい」とか、言葉を尽くして私に問うてくれたけれど、私は康太と同じ未来を歩くことを、決断することはできずに終わってしまった。
康太がロンドンに経って、音沙汰が途絶えた後、幾度となく後悔の念に駆られたこともあったけれど、あの時の私は、仕事よりも結婚を優先することがどうしてもできなかった。
数年後に、康太が帰国して結婚したことをフェイスブックの友人の投稿で知った時も、ほんの少しほろ苦い気持ちになったけれど、あの時の決断は間違っていなかったと今は思っている。

Writer : Miranda

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